娘「2人を理解できなかった」 希林さんの本棚にあった『裕也さん』からの手紙に絶句!

2018年9月15日、75歳で急逝した女優の樹木希林さん。

9月30日に行われた葬儀では、生前に希林さんと親交のあった吉永小百合さんや北大路欣也さんら関係者が多く参列しました。

ファン1500人も参列した希林さんの葬儀の喪主は、ロックミュージシャンの内田裕也さん。

希林さんの急逝にショックを受け、「内田さんの体調が優れない」といった報道もありました。

その影響もあったのでしょうか。

最後の挨拶は体調不良を理由に、希林さんと内田さんの娘である内田也哉子さんが行いました。

そこで明かされたのは、1974年に内田さんが希林さんに宛てた手紙の存在…その内容に、娘である也哉子さんは絶句したといいます…。

樹木希林さんと内田裕也さんの関係
1973年10月に内田さんと結婚した希林さんでしたが、約1年半で別居。

以来、離婚こそしないまでも、一緒に住むことはない婚姻関係を40年以上も続けていました。

周囲から見ると「なぜ離婚しないのか」と不思議に感じることもあるでしょう。娘である也哉子さんも、2人の関係に困惑し、希林さんを問い詰めたことがあったといいます。

当時のことを、挨拶で次のように振り返った也哉子さん。

ところが困った私が、『なぜこのような関係を続けるのか』と母を問い詰めると、平然と『だってお父さんにはひとかけら、純なものがあるから』と私を黙らせるのです。

産経ニュース ーより引用
自分の親とはいえ、2人の関係を「永遠に分かりようもないミステリーだった」と語る也哉子さん。

確かに、当人同士にしか理解しにくい関係だったのかもしれません。

ところが、数日前希林さんの本棚を整理していた也哉子さんは、一通の手紙を発見します。

それは、1974年に内田さんがロンドンから希林(当時、悠木千帆)さんに宛てた手紙。これを読んだ也哉子さんは、心の中にあった2人の関係に対するわだかまりが解けていくのを感じます。

『今度は千帆と一緒に来たいです。
結婚1周年は帰ってから2人きりで。

蔵王とロサンゼルスというのも、世界中にあまりない記念日です。

この1年、いろいろ迷惑をかけて反省しています。

裕也に経済力があれば、もっとトラブルも少なくなるでしょう。

俺の夢とギャンブルで高価な代償を払わせていることはよく自覚しています。
突き詰めて考えると、自分自身の矛盾に大きくぶつかるのです。

ロックをビジネスとして考えなければならないときが来たのでしょうか。
最近、ことわざが自分に当てはまるような気がしてならないのです。

早くジレンマの回答が得られるように祈ってください。
落ち着きと、ずるさの共存にならないようにも。

メシ、この野郎、てめぇ…でも、本当に心から愛しています。

1974年10月19日 ロンドンにて 裕也』

産経ニュース ーより引用
内田さんの感謝と親密な思いが詰まった手紙を読み、也哉子さんは「しばし絶句してしまった」と語りました。

それでも、希林さんが内田さんと離婚しない理由を、少しは理解できたのかもしれません。

ネットにもさまざまなコメントが寄せられています。

・娘にとっても希林さんと裕也さんの関係はミステリーだったんですね。でも、2人にしか分からない信頼関係があったのでしょう。

・裕也さんの『ひとかけらの純粋さ』が、希林さんにはちゃんと見えていたということ。ご冥福をお祈り申し上げます。

・こういうところがあるから、最後の最後で見捨てることができなかったんですね。理解できずとも2人の関係はリスペクトに値するように感じる。

約44年の間、内田さんからの手紙を大切にしまっていた希林さん。

それだけで、希林さんがこの手紙をどれほど大切に思っていたかが分かります。

圧倒的な存在感と、独特の空気感で愛され続けた希林さん。「もうその姿を見ることができない」と思うと、寂しくてなりません。

そして、それは我々ファンのみならず、近親者にとっても同じなのでしょう。樹木希林さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

内田也哉子さんのあいさつ全文(内田裕也さんが1974年に樹木希林さんに宛てた手紙全文)

「私にとって母を語るのに、父、内田裕也をなくして語れません。
本来なら、このような場で語ることではないのかもしれませんが、思えば、内田家は数少ない互いへのメッセージ発信をいつも大勢の方々の承認のもとに行っていた“奇妙な家族”でした。

また生前、母は恥ずかしいことこそ、人前でさらけ出すというやっかいな性分だったので、皆様が困らない程度に少しお話しさせてください。

私が結婚するまでの19年間、うちは母と私の2人きりの家庭でした。

そこにまるで、象徴としてのみ君臨する父でしたが、何をするにも私たちにとって大きな存在だったことは確かです。

幼かった私は不在の父の重すぎる存在に、押しつぶされそうになることもありました。

ところが困った私が、『なぜこのような関係を続けるのか』と母を問い詰めると、平然と『だってお父さんにはひとかけら、純なものがあるから』と私を黙らせるのです。

自分の親とはいえ、人それぞれの選択があると頭ではわかりつつも、やはり私の中では、永遠にわかりようもないミステリーでした。

ほんの数日前、母の書庫で探しものをしていると、小さなアルバムを見つけました。
母の友人や、私が子供の頃に外国から送った手紙が丁寧に貼られたページをめくると、ロンドンのホテルの色あせた便箋に目が留まりました。
それは母がまだ悠木千帆と名乗っていた頃に、父から届いたエアメールです。

『今度は千帆と一緒に来たいです。
結婚1周年は帰ってから2人きりで。

蔵王とロサンゼルスというのも、世界中にあまりない記念日です。

この1年、いろいろ迷惑をかけて反省しています。

裕也に経済力があれば、もっとトラブルも少なくなるでしょう。

俺の夢とギャンブルで高価な代償を払わせていることはよく自覚しています。
突き詰めて考えると、自分自身の矛盾に大きくぶつかるのです。

ロックをビジネスとして考えなければならないときが来たのでしょうか。
最近、ことわざが自分に当てはまるような気がしてならないのです。

早くジレンマの回答が得られるように祈ってください。
落ち着きと、ずるさの共存にならないようにも。

メシ、この野郎、てめぇ…でも、本当に心から愛しています。

1974年10月19日 ロンドンにて 裕也』

今まで想像すらしなかった、勝手だけれど、父から母への感謝と親密な思いが詰まった手紙に、私はしばし絶句してしまいました。

普段は手に負えない父の、混沌(こんとん)と、苦悩と、純粋さが妙に腑に落ち、母が誰にも見せることなく、大切に自分の本棚にしまってあったことに納得してしまいました。

そして、長年、心の何処かで許しがたかった父と母のあり方へのわだかまりがすーっと溶けていくのを感じたのです。

こんな単純なことで、長年かけて形成されたわだかまりが溶け出すはずがないと自分にあきれつつも、母が時折、自虐的に笑って言いました。

『私が他所から内田家に嫁いで、本木さんにも内田家を継いでもらって、みんなで一生懸命、家を支えているけど、肝心の内田さんがいないのよね』と。

でも、私が唯一親孝行できたとすれば、本木さんと結婚したことかもしれません。
(本木さんは)時には本気で母の悪いところをダメ出しし、意を決して暴れる父を殴ってくれ、そして、私以上に両親を面白がり、大切にしてくれました。

何でもあけすけな母とは対照的に、少し体裁のすぎる夫ですが、家長不在だった内田家に、静かにずしりと存在してくれる光景はいまだにシュール過ぎて、少し感動的ですらあります。

けれども、この絶妙なバランスが欠けてしまった今、新たな内田家の均衡を模索するときが来てしまいました。

おじけづいている私はいつか言われた母の言葉を必死で記憶から手繰り寄せます。

『おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きればいい』

まだたくさんすべきことがありますが、ひとまず焦らず家族それぞれの日々を大切に歩めたらと願っております。

生前母は、密葬でお願いと、私に言っておりましたが、結果的に光林寺でこのように親しかった皆さんとお別れができたこと、またそれに際し、たくさんの方々のご協力をいただく中で、皆さまと母との唯一無二の交流が垣間見えたことは残されたものとして、大きな心の支えになります。

皆さま、お一人お一人からの生前のご厚情に深く感謝しつつ、どうぞ、故人同様、お付き合いいただき、ご指導いただけますことをお願い申し上げます。

本日は誠にありがとうございました」

産経ニュース ーより引用

出典 https://grapee.jp/

出典産経ニュース